twitterと「ここではない、どこかへ」

twitterを始めて1ヶ月が過ぎようとしています。個人的には長続きしなさそうだな(自分が)と思っていたのが意外と必需品になりつつあります。で、ブログは複数あるしSNSもあるし(しかも生かし切れていない)、という状況でさらに新しいサービスを使うのはどうしてだろうかと自問自答中。もちろん、まわりの人々が積極的に更新しているから自分も更新しよう、というネットワーク外部性らしきものが働いているのは確かなのですが、こういうものは一気に立ち上がらないと回っていかなくて、数多あるウェブサービスがこの壁を突破できずに敗退していきました。その中で、twitterがいまのところ選ばれたように見えるのはなぜでしょうか。

twitterそのものの特徴である、「いま何をしているかに特化」「140文字しか書けない」「コミュニケーションの主客がない」「オープンである」という点に需要があったという考え方は当然ありうるわけですが、果たして本当にそうなのかはちょっと疑問です。twitterがそれほど認知されていなかった2007年3月の時点で(もうちょっと前でもいいですが)、自分がウェブ上のコミュニケーションサービスに対して何か強い不満を感じていたかというと全然そんなことはなく、普通にブログやSNSを使っていました。それが、twitterの存在を知り、何が何やらよくわからないままに更新してみてはじめて「ああ、こういうことはブログやSNSでは書けなかったなあ」と思ったのが正直なところです。それは、ずっと書きたいと思っていたけど叶わなかったことが実現できたというのではなく、書きたいとすら思っていなかったことが書けてしまったという感覚です。メディアがあってはじめてコンテンツを生み出しうるという、通常考えられているのとは逆の体験は、かつてブログの登場時にもSNSの登場時にもありました。そしてまた同じことがtwitterの登場によって起こっていて、多くの人を引きつけたのではないかという気がします。

ブログ、SNStwitter(そのうち包括的なジャンル名がつくと思いますが)、そのどれもが既存のメディア(ブログならウェブ日記、 SNSならブログ、twitterならSNS)に「似ているけれども違うもの」として受け入れられてきました。しかも、登場のタイミングはユーザが既存のメディアの使い方を習熟したのとほぼ同時期。もしかすると、これは偶然の産物ではなくて、あるメディアが作り出すコミュニケーション対象との距離感がうまく取れるようになった瞬間に、それとは違う距離感を求めるようになるからかもしれません。

サービスの機能のよしあしは特定の距離感を作るために必ず検討されなければなりません。しかし、そうして作られた距離感が受け入れられるかどうかは、既存のメディアが生み出す距離感とその習熟度に依存する。この仮説は新しいサービスを提供しようとする人々にとって福音でしょうか。twitterに代表されるプレゼンスベースのゆるやかなコミュニケーションの次に来るものは何か、そのタイミングはいつなのか、気は早いですがじっくりと見ていこうと思います。