ウェブ未来論:第1回

「ウェブ未来論」はNTT出版Webマガジンに掲載されています。最新の記事はこちらから。

はじめに

ウェブによってわたしたちの生活は変わった。そしていまも変わり続けている。どれくらい変わったかは人それぞれであるとしても、少なくともこの文章を目にする機会は、ウェブなしにはありえない(ありがとうございます)。
ウェブが誕生したのは1989年のことである。それからわずか20年足らずのうちに、あらゆる分野でウェブの影響が見られるようになった。経済的には、グーグルやヤフーなどといった、ウェブを中心として活動している新興企業の存在感が大きくなり、既存の産業を脅かしている。また、ウェブ関連のベンチャー企業が続々と設立され、そのうちのいくつかは数年で株式を公開し、急激な成長を続けている。社会的には、ウェブ上で個人を中心とした情報発信が進むことによって、マスメディアの存在価値が問われたり、既存の社会制度との軋轢が生まれている。
それでも、これまではコップの中の嵐であると片付けることもできなくはなかった。現実世界は現実世界、バーチャルな世界はバーチャルな世界であるという棲み分けは、暗黙的ではあったとしても存在していた。
ところが、そういった区別が意味をなさなくなる事象が増えている。ウェブ企業が既存企業を買収する。あるいは既存企業がウェブの力を取り込んで成長する。ウェブがニュースの情報源となる。メディア企業がウェブを使ってニュースの反応・フィードバックを得る。こういった事象では、現実世界とバーチャル世界は完全に一体化している。もはや、そこには新旧の対立はない。
現実世界とバーチャル世界の融合は、わたしたちの生活にひとつの大きな変化を与えた。スピードである。IT革命が騒がれた2000年前後、その技術の進歩の速さを評して「ドッグイヤー」という言葉があった。曰く、イヌの1年は人間の7年に相当する。技術も同様に1年間で7年分の進歩があると。それが、いまでは「マウスイヤー」と呼ばれるようになった。ネズミの1年は人間の18年分にあたる。
しかし、ドッグイヤーの時代とマウスイヤーの時代が異なるのは、速さだけではない。その速さが、技術だけではなく、その技術を使いこなす人間のあり方の変化、社会のあり方の変化にまで波及しているところが、決定的な違いである。
2年経てば30年分以上、3年経てば50年分以上の変化というのは、あまり実感がない。けれども、これまでにウェブが何をもたらしたかを振り返ってみることで、その変化をいくぶんかは検証することができると思われる。

ウェブによるコミュニケーションの変容

例えば、仕事の用件で初めて会う人がいるとする。名前を事前に知っていれば、その名前を検索エンジンに入力し、結果を眺める。大学のゼミの名簿や、スポーツの競技記録の中に名前が出てくるかもしれない。本人がブログを公開していることもありうる。その時は、数カ月分の記事を読んでみる。名前が出てこなくても、会社名や部署名など、関連のありそうなキーワードを調べることができる。
そうして、いざ本人を目の前にしたときに、その場所で話す内容は事前に検索をしなかった場合に比べてどうだろうか。あいさつをすることは変わらないが、お決まりの自己紹介や会社紹介は大きく変わるだろう。そうすれば、本題に入るのも早い。本題について深い議論をすることができれば、取引が成立する可能性も高くなる。
ウェブによるコミュニケーションの変化は初めて会う人の場合に限らない。古くからの知人であっても同様のことが起こりうる。人生のある時期に同じコミュニティに所属していた知人でも、コミュニティを離れれば疎遠になる。こういった知人とひさしぶりに集まるときには互いに近況を報告しあう。これは楽しい時間であるが、近況の報告だけで時間がなくなることも多い。人数が多くなればなおさらのこと、話す機会がないまま終わることもある。
一方、近年ではソーシャルネットワーキングサービス(SNS)を利用して、ウェブ上でもコミュニティのやりとりを行えるようにすることができる。ウェブ上のコミュニティには物理的制約がないために離れる必要はない。SNSや、上で述べたブログによって、かつて所属していたコミュニティの現状をリアルタイムで知ることができる。そのうえで行われる実際のコミュニケーションの内容は、近況報告とは異なるものになることが期待される。
さらには、毎日顔を合わせる人々とのコミュニケーションにおいてもウェブは影響を与えうる。会社であれ学校であれ、ある状況・場所(以下コンテキストと呼ぶ)で会う人との関係は、上司‐部下や同僚などおおむね一面的である。もちろん、同僚かつ趣味のスポーツではチームメイトであるといったように多面的な関係が結ばれていることもある。関係の多面性は特定の状況でのコミュニケーションにも役立つと思われるが、相手がどのようなコンテキストの中で生活をしているかを全人格的に知ることは難しい。
けれども、ブログやSNSによって、その相手が普段見聞きしているのとは異なるコンテキスト、異なる知人関係の中で活動していることが可視化される。その中で、自分との共通性が発見されることもあれば、そうでないこともある。いずれにせよ、ウェブ上のコミュニケーションによって多面性を理解するきっかけとなる。
ここで挙げた3つのシチュエーションのどれもが、実際の対面コミュニケーションが発生する前の段階で自身の状況を公開するとともに、公開された相手の情報を収集しておくことによってコミュニケーションの中身が豊かになることを示している。このように、ウェブの存在によって、コミュニケーションのプロセス自体が拡張され、それによってよりよいコミュニケーションが達成されているのではないだろうか。
こういった、人々のコミュニケーションへのウェブの介在は、それほど昔からあったことではない。これらが可能になるためには、インターネットへの接続環境、個人が情報公開をするための基盤、そして公開された情報の検索手段が整備される必要がある。また、場合によっては情報公開に際する所属組織の理解も必要である。これらのすべての条件が整ったのは、2000年から2002年にかけてのことでしかない。裏返して言えば、それより前にはこのようなコミュニケーションは不可能だったということである。

ウェブによる情報検索の変容

いま、ウェブで得られない情報はないといってもいい。PCやケータイで検索エンジンにアクセスすれば、その場で欲しい情報を得ることができる。知らない言葉の意味、商品情報や価格、評判といったテキストだけではなく、画像、映像、地図まであらゆる形態の情報が手に入る。いまでは、広告の中に検索エンジンに入力するためのキーワードが掲示されており、興味を持った人を誘導することも多い。
検索エンジンはウェブのインフラになりつつあるが、そのような状況になったのはごく最近のことである。ウェブの初期から検索エンジンは存在したが、重要な機能であるとは認識されていなかった。そもそも、当時は検索ボックスに入力するキーワードが思いつかなかった。何を検索すべきであるかがわからなかったのである。
何を検索すべきかという判断は、何が検索できるだろうかという期待と表裏一体である。ウェブ上の情報に網羅性がなかった時代には、検索エンジンを利用したとしても満足な結果を得ることができないということが経験的に理解されていた。そのために、検索エンジンが利用される機会は少なかった。逆に、いま検索エンジンが多用されるのは、人々が求めるものを提示してくれるという期待があるからだと言える。検索エンジンが確実に回答できるだけの情報量をウェブが持つようになったのだと人々が信じるようになったことが、現在の状況をかたちづくっている。
検索エンジンに「いま流行っていることを教えてほしい」と聞く人はいない。それは、検索エンジンにはそのような質問に回答できると誰も思っていないからである。人々がそのように行動してくれる限りにおいて、検索エンジンは万能であり続けるのだろう。
ウェブと検索エンジンは、情報検索の機会をすべての人々に提供したが、その一方で、目的の情報にたどり着くために費やす時間は非常に大きい。一説に拠れば、知識労働者の労働時間の3割が検索に費やされている。20年前には存在しなかったこの時間は、人々を幸せにしているのだろうか。

人・社会・技術の共進化

これから、現在のウェブの姿を描き出していく。しかしながら、ウェブが生み出したさまざまな事象のすべてについて言及することは難しい。それは現実世界を描写することとほぼ同じであるからだ。
とはいえ、ウェブそのものはそれほど多くの機能を提供してくれているわけではない。技術的には、情報を公開できるようにし、公開されたものを閲覧できるようにするだけである。これだけのものが、なぜわたしたちの生活を変えるほどのインパクトを与えるようになったのだろうか。
それは、技術だけが圧倒的に進化したわけではなく、人々がそれを受け入れ、社会のあり方を変革し、その過程で新たな技術的要求が生まれるという形で共進化したからであると筆者は考えている。
この連載ではウェブに見られる人・社会・技術の共進化を、コミュニケーションと情報検索という2つのキーワードに基づいて読み解き、その未来について議論していく。
長いおつきあいになるかと思いますが、よろしくお願いいたします。

「ウェブ未来論」はNTT出版Webマガジンに掲載されています。最新の記事はこちらから。