「Googleの狂気」はGoogleだけの狂気か

こういうタイトルを書きたいがゆえのエントリー。きょうは徹夜なのでお許しを。ちょっと前の、id:umedamochioさんがフォーサイトで書かれていた話に触発されて、思い出した話。

グーグルを見ているといつも「なぜ山にのぼるのか」「いや、そこに山があるから」という問答を思い出す。この会社の特異性は、「整理されていない情報がこの世に存在することを許さぬ」という異様とも言うべき強固な意志である。

シリコンバレーからの手紙:「ビスタ」を無意味にするグーグル「二つ目の顔」

1年半ぐらい前、学会でアイルランドに行ったことがあって、観光がてらダブリンのトリニティ・カレッジという大学に立ち寄ったのだけど、Long Roomと呼ばれている図書館がとんでもなくすごい。中はこんな感じ。

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長さ60mぐらいの建物の両側に聳え立つ本棚と、そこにぎっしり詰め込まれた革装丁の本。高いところにはとても手が届かない。で、ラテン語か何かは知らないけどインデックスされている。(ついでに廊下中央のガラスケースにはニュートン「プリンキピア」初版とかが展示されていた)

あまりの光景にただ立ちつくすのみなのだけれど、なぜ立ちすくむのかというと、それはたぶん「知を整理すること」への執念がありありと感じられるから。どう考えても実用性うんぬんの前に、知への畏敬というか欲望というか、そういうものがある。

ちなみに、トリニティ・カレッジは1592年にできたらしい(Wikipedia)。ぼくは欧米の大学に出入りしたことはあんまりないけど、ここだけが特別なのではなく、似たような場所はそこら中にあたりまえのように存在しているのではないかと思っている。その意味で、Googleがいまやっていることは保守本流の正統派だと言える。あまりに保守本流すぎて、ビジネスを通り過ぎているからこそ「特異」ということになるのだろう。

翻って、日本のことを考えると、知を整理するということが遺伝子レベル(というかミームレベルというか)で叩き込まれているかというと甚だ疑問。もしGoogleと戦いたいと思うのなら、それはGoogleとだけ戦うのではなくて、それを支えてきた蓄積との戦いになる。少なくとも依って立つ場所の違い(行く川の流れは絶えずしてとか)を認識させつつ、ルールを作っていかないと勝負にならない。ここまでできたら勝ち負け関係ないけれど。

もちろん以上の話は当てずっぽうもいいところだけど、「ウェブ人間論」にもあったように、Googleは陰謀で動いているのではなくて、もっとシンプルな原理でひたすらやるべきことをやっているのだと思う。

あれ、何の話だったか。図書館の写真を紹介したかっただけだったのに。まあいいや。